「罪」ということば
「罪」は「犯罪」という意味ではありません。聖書が本当に伝えたいことを、丁寧に見ていきます。
今週、自分で決めたはずのことを守れなかった経験はないでしょうか。「子どもにはもっと辛抱強く接しよう」と朝に思ったのに、朝食の前にはもう声を荒げてしまった。友人に「いつも正直でいよう」と言ったのに、その場の空気を壊したくなくて、思ってもいないことを口にしてしまった。宗教とは関係なく、誰もが「なりたい自分」と「実際の自分」との間のずれを感じたことがあるはずです。
前回のレッスンでは、財産を使い果たした息子と、それでも走り寄って迎える父親の物語を見ました。そこで気づいたのは、イエスがいちばん厳しい言葉を向けたのは「自分には謝ることなど何もない」と確信していた人たちであり、いちばん優しい言葉をかけたのは、自分の至らなさをすでに知っていた人たちだった、ということです。ここで当然の疑問が生まれます。「至らない」とは、いったい何に対してなのでしょうか。聖書にはこれを表す言葉があります。日本語では「罪」です。この言葉を聞いて身構えてしまったとしても、それはあなただけではありませんし、何かがおかしいと感じるその感覚は間違っていません。その身構えの多くは、日常の日本語での「罪」の響きから来ています。聖書が「罪」と言うとき、指しているのはそれとは違うものなのです。
このレッスンでは、「罪」が本当は何を指しているのか、そして何を指していないのかを、ゆっくりと見ていきます。責めるためではありません。多くの人がすでにどこかで感じている何かを、正直に言葉にするためです。
「罪」は「犯罪」ではありません
「罪」という言葉には大きな問題があります。日常の日本語では、「犯罪」のすぐ隣にある言葉で、「罪人」と聞けば自然に「犯罪者」を思い浮かべてしまいます。ですから「あなたは罪人です」と言われれば、「法律を破ったことなどない。税金も納めているし、故意に人を傷つけたこともない。自分は罪人ではない」と思うのは、むしろ健全な反応です。意固地になっているわけでも、身構えすぎているわけでもありません。言葉の響きからすれば、そう感じるのが当然です。問題は、聖書がそもそも法廷の言葉として「罪」を使っていないところにあります。
実は、宗教的だと意識したことがなくても、もっとしっくりくる感覚を、多くの日本人はすでに持っています。事故や身内の不幸、悪いことが重なったとき、お祓いを受けに神社を訪れる人は少なくありません。お祓いを受ける人が何か犯罪を犯したと考える人はいないでしょう。そこにあるのは、「清らかであるべきもの」と自分との間に何かが入り込んでしまった、そしてそれは放っておけるものではない、という感覚です。
この感覚のほうが、法廷よりもずっと、聖書の言う「罪」に近いのです。ただし、聖書はさらに先まで語ります。それはこのレッスンの後半で見ていきましょう。「罪」とは、まず国の法律を破ることではありません。関係の話です。自分を造られた神に背を向けて、自分の道を行くこと。そしてその結果、神から離れている状態にあることです。ちょうど、人と人との関係にひびが入るように。だからこそ、はっきり言っておきたいのです。誤解があまりに根深いからです。「罪」は「犯罪」ではありません。「あなたには罪がある」と言われることは、「あなたは犯罪者だ」と言われることではありません。それは、「あなたを造られた神との間に、何かが入り込んでいる」ということなのです。
「的を外す」ということ
新約聖書で「罪」と訳されることがもっとも多いギリシャ語は「ハマルティア」で、その基本的な意味は「的を外す」ことです。弓を引き、的の中心を狙って矢を放つ。けれども矢はそれて、的から外れてしまう。射手が悪人だからではありません。ただ、狙った場所に矢が届かなかった、ということです。これが「罪」という言葉の姿の一つです。自分がどれほど極悪だという証明ではなく、自分が造られた目的からのずれを表しているのです。(聖書は罪を、ほかの姿でも描いています。神が引かれた線を踏み越えること。神に背を向けること。「的を外す」は入り口であって、すべてではありません。)
今朝、親にもっと辛抱強く接しようと思っていたこと、守るつもりだった約束、言うつもりだったのに結局言えなかった謝罪の言葉を思い出してみてください。それらがうまくいかなかったからといって、あなたが犯罪者になるわけではありません。ただ、何かがうまく働いていない、ということです。自分の内側で、そして聖書の言葉を借りれば、神との間で。
ただ、それがだれの的なのかに注目してください。的は、自分で決めた基準ではありません。もしそうなら、基準を下げればすむ話です。的とは、神が私たちを造られた目的、つまり、心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することです。イエスがもっとも大切だと言われた、あの二つの戒めです。この的に照らせば、中心を射抜ける人はだれもいません。だからこそ聖書は、この問題を「自分の期待に届かないこと」としてだけでなく、「神に届かないこと」として語るのです。
この感覚に気づくのに、宗教は必要ないかもしれません。けれども使徒パウロは、ローマにできたばかりの教会に向けて、これを誰よりも正直に言い表しています。誰か他人を責めるためではなく、「わたし」という一人称で、善を知っていながら自分の力ではそれを行えない、という状態を、こう描いているのです。
「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。」
「あなただけ」ではありません
ここまでの話を、自分だけが名指しで責められているように受け取ってしまうかもしれません。しかし、そうではありません。
このずれは、神との間だけの、目に見えない個人的な問題にとどまりません。中心にあるひびは、たいてい周りにも影響を及ぼします。なかなか解決しない家族間の摩擦。誰かと比べて自分を劣っていると感じてしまう衝動。すべての下で静かに流れ続ける自己否定、「自分はこの程度だ」とささやく声。
そしてこれは「罪悪感」(何か悪いことをしてしまったという感覚)だけの話でもありません。しばしば同じくらい大きいのが「恥」、自分という存在そのものが至らない、居場所がない、というような感覚です。どちらも本物であり、どちらも大切です。このレッスンは、あなたがすでに抱えている恥に、さらに重荷を積み上げるためのものではありません。ようやく向き合えるように、正直に名前を与えるためのものです。一人でずっと抱え続けるためではなく。
新約聖書でもっともよく引用される一節の一つが、その範囲をはっきりと語っています。「一部の人」ではなく、「明らかに悪い人たち」でもなく、次の聖句がそう告げています。
「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」
「穢れ」よりも深いもの
このレッスンの初めに、「罪」をお祓いの背後にある感覚にたとえました。けれども、このたとえが通じなくなるところがあります。そしてその違いが大切なのです。穢れは多くの場合、外から身に付くもので、儀式によって祓い清められるものと考えられています。聖書が描く罪は、もっと人格的なものです。私たちがすることであり、私たちが絡め取られているものであり、そして、ある方に対するものです。ダビデ王は、自分のした最悪のこと(他人の妻を奪い、その夫が死ぬように仕向けたこと)を振り返ったとき、神にこう祈りました。「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し」。彼は実在の人々をひどく傷つけていました。それでも、その人たちへのあらゆる過ちの根には、彼らを造られた神への過ちがあることを、彼は見ていたのです。
だからこそ聖書は、罪をとても重く受け止めます。神はいのちの源であり、罪とはその方に背を向けることです。ですから聖書は、その行き着く先をはっきりと「死」と呼びます。体の終わりだけではなく、いのちを与える方から断たれることです。お祓いも、どれほど善い行いを積むことも、元日の新たな出発も、そこまで深くは届きません。もしこのレッスンがここで終わるなら、それはとても重い知らせでしょう。
けれども聖書は、この前半だけを語って、後半を語らずに終わることがほとんどありません。罪が支払う報酬を告げるその同じ一文で、パウロは贈り物についても語っています。
「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」
終わりではなく、続きのある傷
イエスより約700年前に生きた預言者イザヤは、この状態を、羊を飼ったことがない人にも伝わるイメージで描いています。狼ではなく、悪人でもなく、羊です。羊は悪意から迷うのではありません。目の前のものを追ううちに、気づけば迷っているのです。けれども、イザヤが選んだ言葉に注目してください。「おのおの自分の道に向かって行った」。それは漂流であると同時に、私たちが繰り返している選択でもあるのです。これは「犯罪者」と呼ぶよりも、ずっと正確で正直な「罪」の描き方です。
けれどもイザヤは、そこで終わりません。同じひと息の中で、読む者の足を止めさせる言葉を語ります。そのさまよいの重さは、ほかの誰かの上に置かれた、というのです。「彼」とはだれなのか、イザヤ自身ははっきりとは説明していません。読者たちは二千年以上、そこに思いを巡らせてきました。今大切なのは、この主張の形です。担うべきだった重さを、別の誰かが引き受けることに同意した、ということです。
だからこそ、このレッスンは、あえてここで答えの全部を語らずに止まっています。「罪」を正直に(犯罪としてではなく、罪悪感にも恥にも表れる本当の断絶として)名づけることは、まだ話の半分にすぎません。残り半分は、これほど大きなずれに対して、何かできることがあるのか、ということです。次のレッスンでは、キリスト教信仰のもっとも驚くべき主張(神は、この問いを私たちだけに委ねられなかった、という主張)にまっすぐ向き合います。イザヤ自身の言葉が、まさにそこを指し示しています。
「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」
ことばの説明
- 罪(つみ)
- 「犯罪」という意味ではなく、神に背を向け、神が造られた目的に届かないこと。その結果、神から離れた状態にあります。報酬が死であるほど重いものですが、すべての人に共通するものであり、あなたが特別に悪いことの証明ではありません。
- ハマルティア
- 新約聖書で「罪」と訳されることがもっとも多いギリシャ語。基本の意味は「的を外す」こと。聖書は罪を、線を踏み越えることや、神に背を向けることとしても描いています。
- 穢れ(けがれ)
- 日本の伝統にある、清めを必要とする「汚れ」の感覚。「犯罪」よりも聖書の言う「罪」に近い感覚です。違いは、罪が神ご自身に対する人格的なものであり、どんな儀式でも取り除けない、という点です。
この課のまとめ
- 「罪」は「犯罪」という意味ではありません。聖書が語っているのは、法律の話ではなく、関係の話です。
- 「的を外す」というイメージは、神が私たちを造られた目的とのずれを表します。あなたが特別に悪いという証明ではありません。
- このずれはすべての人に共通するものであり、あなただけを名指ししたものではありません。
- それは「罪悪感」(したこと)としても、「恥」(自分という存在)としても表れます。聖書はその両方に語りかけます。
- 罪は重いものです。聖書はその報酬を死と呼び、どんな儀式や努力でも洗い流せないと語ります。そして同じ一文の中で、永遠のいのちを無償の賜物として差し出しています。
- 正直に名づけることは終わりではありません。次のレッスンでは、神がこのずれに対して何をされたかを見ていきます。
考えてみましょう
- そのずれを一番強く感じるのは、どんな時ですか。それを自分の基準だけでなく、神があなたを造られた目的に届かないこととして考えると、何かが変わるでしょうか。
- 「罪」を「犯罪」としてではなく、「ずれ」や「神からの離れ」として考えると、何か違って感じられますか。
- 何かをしてしまったことへの「罪悪感」と、自分という存在への「恥ずかしさ」、この二つに違いを感じますか。
祈ってみたい方へ
神さま。もしあなたが本当にいるなら、この「罪」という言葉を、まだ十分には理解できていません。けれども、それが指し示すずれには心当たりがあります。そしてそれが、なりたい自分と実際の自分との間だけでなく、私とあなたとの間のずれでもあることに、少しずつ気づき始めています。もしそのずれを、あなたがすでにご存じで、それでも私を見放さずにいてくださるのなら、あなたがそれに対して何をされたのか、もう少し知っていきたいと思います。アーメン。
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