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「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
コリント第二 5:17 (口語訳)

現代の暮らしの多くは、消えない記録の上で動いています。一度きりの入学試験。ついて回る履歴書の空白。決して消えないスクリーンショット。いつのまにか、私たちの多くは静かなルールを飲み込んでいます。「これまでのあなたが、今のあなた。今のあなたが、これからのあなた」。決定的な失敗を、まずい瞬間にしてしまえば、物語は固定される、と。

そのルールに真っ向から対立する、新約聖書で最も爆発的な一文を、パウロは書きました。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」。改訂版ではありません。修正履歴つきの古いファイルでもありません。「造られた」は、創世記が、それまで存在しなかったものに使う言葉です。パウロはこう主張しているのです。神は人をリフォームしない。造り直すのだ、と。

この文が何を言っていないかに、注目してください。「だれでも懸命に努力するならば」とは言っていません。自己改革が疲れ果てる営みなのは、改革を行う自己が、まさに改革を必要としている当の自己だからです。自分の髪をつかんで水面から自分を引き上げようとする泳ぎ手のようなものです。パウロの語る新しさには、技法ではなく、場所があります。「キリストにあるならば」。それはあなたが作り出すものではなく、あなたが置かれる場所なのです。

「古いものは過ぎ去った」。パウロは、自分が何を書いているか分かっていました。この言葉を記している本人こそ、かつてクリスチャンを迫害し、処刑に賛成した男だったのです。誰かの経歴が永久に残るべきだとしたら、それは彼のものだったでしょう。それでも彼は、古いものは「過ぎ去った」と語ります。記憶から消去されたのではなく、あなたを定義する力を剥奪されたのです。あなたの過去は、あなたに起こった出来事のままそこにあります。ただ、あなたが何者であるかを決めるものでは、なくなるのです。

もしかしたらあなたは、自分の物語はもう固定されたと思い込んできたかもしれません。すでに書かれた章が多すぎる。記録に残ったことが多すぎる、と。この聖句は、まさにその思い込みのために書かれました。キリストにあって、あなたの過去は証しであって、判決ではありません。そしてペンは、今日この日から、あなたの手よりも確かな手の中にあります。

今日の祈り

造り主なる神さま、私はこれまで、自分の経歴が最終判決であるかのように生きてきました。古いものが過ぎ去る場所、キリストのうちに、私を置いてください。修正された下書きではなく、新しく造られた者としてください。今日、この日から。アーメン。

考えてみましょう

  1. あなたはこれまで、自分の物語のどの章を「書き直し不可能」として扱ってきましたか。
  2. 「キリストのうちに置かれる」ことは、「自分磨き」とどう違うのでしょうか。日々の暮らしの中で、具体的に。
  3. もし過去が判決ではなく証しになったら、明日は何が変わるでしょうか。

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