ここから、どうすればいいのか
勧誘ではありません。「信じる」とは何か、家族のことはどうなるのか——ここから先を、あなたのペースで考えるための最終課です。
ここまで、七つの課を歩いてこられました。わたしたち一人ひとりから遠く離れてはおられない、天地を造られた神。一つの物語を語る、六十六巻の図書館。神ご自身の権威をもって語った大工。その逆さまの教え。「罪」ということばの本当の意味。十字架。そして、空の墓。すべてに納得していなくて構いません。まず、ここまで読んでくださったことに、心からありがとうございます。
最初に、この最終課が「何でないか」をはっきりさせておきます。これは勧誘ではありません。入会フォームもなければ、連絡先を尋ねる人も、あとから訪ねてくる人もいません。このページを閉じて、一年考えても大丈夫です。神は急いでおられません。ここまでの課が描いてきた神は、愛によって先に動き、そして待つ方でした。圧力はこの方のやり方ではありませんし、わたしたちのやり方にもしません。
この課ですることは三つです。「信じる」とは実際のところ何なのかを説明すること——それは多くの人が思っているより小さく、そして大きなことです。家族の問いに正直に向き合うこと——お葬式、仏壇、そして、これを聞くことのなかった先祖のこと。そして、望む人だけのための、小さな次の一歩をいくつか置いておくこと。疑いは、最後まで持ったままでどうぞ。
「信じる」とは、どういうことか
まず、「信じる」が何でないかから始めましょう。疑いがゼロになること、ではありません。教理をすべて理解して試験に合格すること、でもありません。団体に入会することでも、「宗教的な人」という人格に生まれ変わることでもありません。信仰という漢字は重く、どこか制度めいて見えますが、聖書自身のことばは、もっと素朴な「信頼」に近いのです。制度にではなく、人格に向ける信頼です。
あなたは今朝、いすに座りました。継ぎ目を点検も、耐荷重の計算もしなかったはずです。大丈夫だと思えるだけの理由があって、体重を預けた。信頼とは、そういうことです。完全な知識ではなく、寄りかかるという決断。友情もそうですし、結婚もそうです。新約聖書が「イエスを信じる」と言うとき、意味しているのはこの種の寄りかかりです。信頼に足ると分かってきた方に、自分の重さを預けることです。
そして、寄りかかる先にあるのが、恵みです。恵みとは、すべてが贈り物だ、ということ。良い行いへの報酬ではなく、先に自分をきれいにした人へのごほうびでもありません。イエスの語った物語の父親は、息子がまだ道の遠くにいるうちに走り寄りました。謝罪の言葉もまだ、人生も立て直せていないうちに、です。神が先に動くのです。そのあとにあなたがすることは、感謝の応答であって、入場料では決してありません。
大切なことなので、もう一度。疑いゼロは条件ではありません。福音書のある場面で、追いつめられた父親が「信じます。信じきれないわたしを、助けてください」という意味の祈りを叫びます。イエスはその祈りを、ひとことも責めずに聞き入れました。あなたがこれから出会うクリスチャンは全員、信頼と問いとを、同じ両手に抱えて歩いています。
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」
家族のこと、お葬式のこと、先祖のこと
この国で宗教は、しばしば個人ではなく「家」のことです。お寺との付き合い、お墓、法事をだれが受け継ぐのか。ですから多くの読者にとって、ここまでの話への最初の不安は、教理のことではないはずです。——信じるということは、家族を裏切ることにならないのか。この問いには、話題を変えずに、まっすぐ答えるべきだと思います。
まず、お葬式のこと。家族や親族の仏式の葬儀に出てもいいのか。——出られます。そして実際、日本のクリスチャンの多くは出ています。故人への敬意と家族への愛のためにその場にいることと、礼拝の対象を変えることとは、別のことだからです。焼香のような個々の作法をどうするかは、一人ひとりの良心の問題です。焼香の代わりに黙って頭を下げ、心の中で家族のために祈る人。献花を選ぶ人。事前に親族へ「こういう形で参列させてほしい」と伝えて、当日だれも驚かないようにしておく人。唯一の正解はありません。あるのは、愛と、良心と、対話です。イエスに従うために、家族と対決する必要はありません。
仏壇のことも、似ています。先立った人たちを感謝とともに覚えること——写真を飾ること、お墓を守ること、命をつないでくれた人々を大切にすること。イエスに従う道は、そのどれも消し去りません。変わるのは「だれを礼拝するか」であって、「家族を大切にするかどうか」ではないのです。家ごとに事情は違い、歩みの速さも違います。ゆっくりで構いません。愛が先です。
そして、いちばん重い問いです。——これを聞くことのなかった先祖は、どうなるのですか。ここでは、はぐらかしも、標語のような答えも、あなたに対して失礼だと思います。言えることは二つです。第一に、聖書は一人ひとりの永遠について、完全な見取り図を渡してはくれません。聖書が静かなところでは、わたしたちも断言せず、謙虚であるべきです。第二に、聖書がはっきり見せてくれるのは、神の人柄です。わたしたちよりも正しく、わたしたちよりもあわれみ深く、その人が知り得たことに応じて一人ひとりに向き合われる方。その心は、墓の前で涙を流し、締め出された人を招き続けたイエスに、目に見える形で現れています。あなたの大切な人たちを、あなた自身の善意よりも大きな善意に委ねていいのです。もし神があなたより愛の小さい方なら、そもそも信頼に値しません。この学び全体が語ってきたのは、その逆——神の愛はわたしたちの愛を超える、ということでした。
最後に、もうひとつだけ安心してほしいことを。信じても、日本人でなくなるわけではありません。この信仰はアジアで始まり、日本にもおよそ四七五年の歴史があります。そのうち二五〇年は、宣教師も教会も印刷された聖書もないまま、潜伏キリシタンたちが信仰を守り抜いた歳月でした。この道を歩くことは、文化の乗り換えではありません。これまでも、そうではなかったのです。
試しに祈ってみたい方へ
聖書の終わり近くに、立ち止まる価値のある一枚の絵があります。イエスが戸の外に立って、たたいている——。注目してほしいのは、この方が「していないこと」です。戸を壊しては入りません。合鍵も持っていません。たたいて、待つ。この八つの課の招きは、すべて同じ形をしていました。もしいつか、この知らせが破城槌のような強引さで語られるのを聞いたら、思い出してください。その強引さは後から人間が付け足したもので、この方のものでは決してありません。
もし応えてみたくなったら、その応え方には「祈り」という名前がついています。祈りに決まった形式はありません。敬語の規定も、決まり文句もありません。目を開けていても閉じていても、声に出しても心の中でも、電車の中でもお風呂でも。「本当にいるのかどうか、分かりませんが」から始めても構いません。正直さは、まずい出だしではありません。正直さこそ、祈りのほとんどすべてです。
試してみたい方は、たとえばこんなことばを借りてください。「神さま。いるのかどうか、まだ分かりません。でも、もしいるのなら、あなたを知りたいです。イエスのことを、ありがとうございます。ここからの道を見せてください。」——どの一語も、自由に変えてください。あるいは今日は祈らず、読むこと、考えることを続けてください。それもまた、このページの立派な閉じ方です。
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」
小さな次の一歩
次に進む具体的な場所がほしい方は、ヨハネによる福音書を読んでみてください。あなたがたが信じるためにこれらのことを書いた——と著者自身が言っている伝記です(ヨハネ 20:31)。長くありません。一日一章なら、三週間ほどで読み終わります。この学びで出会った場面の多くに、こんどは原文の声で、再会できるはずです。
神には、飾らないことばで話しかけ続けてください。帰り道の正直なひとことも、立派な祈りです。そして、問いが湧いたら、そのままにしないでください。このサイトには、そのためのページがあります。/ja/ask から、匿名で、何でも、何度でも尋ねられます。基本的すぎる問いも、疑い深すぎる問いも、変わった問いも、ありません。
いつか教会に行ってみたくなったら——中で実際に起こることは、だいたいこうです。歌が数曲、聖書についての三十分ほどの話、そして、ふつうの人たち。その多くは、かつてあなたと同じ場所に立っていた人たちです。いちばん後ろの席に座って、終わったらそのまま帰って構いません。立たされたり、自己紹介をさせられたり、名前を書かされたり、献金を強いられたりすることは、あってはなりません。もし圧力を感じたら、その場を離れて別を探してください——それはあなたの落ち度ではなく、その場所の落ち度です。行ってみることは入信ではなく、見学です。そして、「まだ行かない」も、まったく良い選択です。
この学びの道はここで終わります。ただし、閉店のレジではなく、開いたままの戸として終わります。求めなさい、そうすれば与えられる——この約束は「探している人」に宛てられています。そして今のあなたに必要なのは、探す人であること、それだけです。思い出してみると、イエスが人にいちばん多く尋ねた問いは「理解できたか」ではありませんでした。むしろ「わたしに何をしてほしいのか」に近いものでした。ですから、この道の最後の問いは、あなたのものです。——もしイエスが本当にいて、聞いているのなら、あなたは何を尋ねてみたいですか。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」
ことばの説明
- 信仰(しんこう)
- 制度への加入や教理の暗記ではなく、神を信頼すること。いすに体重を預けるように、神に自分を預けることです。
- 恵み(めぐみ)
- 受け取る側にその資格があるかどうかを問わない贈り物。良い行いへの報酬ではありません。「自然の恵み」の恵みよりずっと鋭い、「もらういわれのないものを、ただでもらう」ということばです。
- アーメン
- 祈りの終わりに添えることば。呪文ではなく、ヘブライ語で「本当にそうです」「そうなりますように」という意味の、素朴な同意のことばです。
- 教会(きょうかい)
- もともとは建物ではなく、人々のこと。完成した人の集まりではなく、同じ方向を向いて歩き始めた、ふつうの(そして不完全な)人たちの集まりです。
この課のまとめ
- 信じるとは、いすに体重を預けるような「信頼」です。確信の完成でも、団体への入会でもありません。
- 恵みは、稼ぐものではなく受け取るもの。良い行いは感謝の応答であって、入場料ではありません。
- 家族の仏式の葬儀には、愛と敬意をもって出席できます。作法は良心の問題であり、事前の対話がお互いを守ります。
- 「聞くことのなかった先祖」の問いには、標語ではなく謙虚さで向き合います。大切な人たちを、わたしたち以上に正しく、あわれみ深い神に委ねていいのです。
- 次の一歩は小さくて構いません。ヨハネによる福音書、飾らない祈り、そして質問。急ぐ必要は、どこにもありません。
考えてみましょう
- 「いすに座るような信頼」を、あなたはすでに毎日、どこで実践しているでしょうか。完全には確かめられないものに体重を預けている場面が、きっとあるはずです。
- この課の家族の問い——お葬式、仏壇、先祖——のうち、あなたにとっていちばん重いのはどれですか。いつか、だれとなら話せそうですか。
- 八つの課を終えた今、あなたの中に残っている一番の問いは何でしょうか。(その問いは、Askのページにも、福音書にも、神ご自身にも、そのまま持っていけます。)
祈ってみたい方へ
神さま。もし本当にいらっしゃるのなら——この学びで、イエスについて多くのことを読みました。まだ全部は分かりませんし、疑いも残っています。それでも、もしあなたが本当におられるなら、あなたを知りたいと思います。イエスのしてくださったことを、ありがとうございます。ここからの道を、わたしのペースで、一緒に歩いてください。アーメン。
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