ともしびであって、投光器ではない
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」
この詩篇が書かれた時代、「ともしび」とは、油と灯心を入れた小さな素焼きの器のことでした。暗闇の中を、およそ一歩進めるだけの光。地平線まで道全体を照らす投光器ではありません。ハイビームでもありません。一歩分です。聖書が自らのために選んだたとえがこれである、という事実の前に、しばらく立ち止まる価値があります。
なぜなら、私たちの多くは投光器のほうがほしいからです。五年計画を照らしてほしい。正しい職業、正しい相手、休憩所まで記された道順のすべてを。そして神が地図を渡してくださらないとき、私たちは「光は消えた」と結論づけてしまいます。けれども、この詩篇は地図を約束していません。約束したのは、ともしびです。次の一歩を誠実に踏み出すのに足りるだけの光。そして一歩進むたびに、新しく与えられる光です。
この設計には、隠されたあわれみがあります。もし道の全体が見えたら、そこにあるすべての谷、すべての喪失、すべての九十九折りが見えたら、その眺めはおそらく、あなたを押しつぶすでしょう。それに、道全体が明るかったら、光の源のそばを歩く必要はなくなってしまいます。ともしびは、あなたを近くにとどめるのです。この「足りなさ」こそが、関係なのです。
これは実は、聖書に溺れずに読み始めるための、実践的な方法でもあります。初めての人はよく1ページ目から始めて、創世記の系図やレビ記の律法にぶつかり、静かに挫折します。ひと月で全体を投光器で照らそうとするからです。そうしなくていいのです。まず、福音書をひとつ。テンポよく読みたいならマルコ、深く味わいたいならヨハネ。1日にひとつの短い箇所(1章、いや1段落でも)を読んで、最後にひとつだけ問うのです。「ここが示す、私の次の一歩は何だろう」。足を動かす1節は、目の前を通り過ぎるだけの50節にまさります。
今夜、道の全部を照らす光は要りません。要るのは一歩分の光であり、聖書はまさにそれを差し出し続けています。その一歩を踏み出してください。次の一歩の光は、そこに着いたときにあります。
今日の祈り
神さま、私は投光器ばかり求めてきました。計画を、地図を、保証を。代わりに、ともしびを愛することを教えてください。あなたのみことばと、一歩分の光と、すぐそばにいてくださるあなたを。今夜の一歩を示してください。アーメン。
考えてみましょう
- あなたの人生のどこで、「道の全部が照らされるまで、一歩も動かない」と拒み続けているでしょうか。
- 一歩分だけの光は、なぜ「不足」ではなく「あわれみ」なのだと思いますか。
- あなたと聖書にとって、現実的な次の一歩は何でしょうか。福音書をひとつ、1日1章、それとも1段落。
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