すでに与えられているもの
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」
日本では、感謝にはしばしば手続きがついてきます。お中元とお歳暮。いただいた額の半分を目安に選ぶお返し。お礼状へのお礼状。その過程のどこかで、「ありがたい」という気持ちそのものが、いつのまにか台帳に変わってしまいます。正しく清算すべき、借りの記録に。一方で、現代版の感謝もそれほど軽くはありません。「ポジティブでいるための感謝」、つまり良いことなど何もなかった日にも、無理やり明るい面を探すこと。それはそれで、疲れる話です。
だからパウロの三つの命令は、最初は無理難題に聞こえます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」。神は二十四時間の明るさをお求めなのでしょうか。もう一度、ゆっくり読んでみてください。「すべての事について」であって、「すべての事を」ではありません。病気の診断そのものを、失業そのものを感謝せよ、と言われているのではないのです。そういう日々のただ中にも、贈り物はなお届き続けている、そのことに気づくよう、招かれているのです。
聖書の語る感謝とは、つまるところ「気づくこと」だからです。そして、静かな驚きがあります。日本語の日常は、実はこのことをずっと知っていました。食事の前の「いただきます」は、文字どおり、いのちを「いただく」ことへの言葉です。「おかげさまで」は、目に見えない支えのもとで生かされている、という感覚です。自分で作り出したのではない贈り物の上で私たちは生きている。その直感は、はじめから日本語の中に息づいていたのです。聖書がそこに加えるのは、贈り主の名前と顔です。
感謝はまた、注意力を鍛え直してくれます。新しい言葉を覚えた途端、街のあちこちでその言葉が聞こえてくる、あの現象に似ています。ひとつのことを感謝すると、恵み(努力の対価ではなく、ただ与えられる神の好意)が、ありふれた一日のあちこちに見え始めるのです。そして、ここに注目してください。この贈り主は、台帳をつけていません。神の贈り物に、請求書は添えられていないのです。釣り合うお返しなど、そもそも計算のしようがありません。それこそが要点です。あなたは義理の仕組みの全体から解放されて、ただ受け取り、ただ「ありがとうございます」と言ってよいのです。
そこで今夜、小さな実験をしてみませんか。今日与えられていたもののうち、自分の力で稼いだのではないものを、三つ数えてみるのです。あの食事。あの人のさりげない親切。この呼吸。義務ではありません。ただの、気づく練習です。「すべての事について、感謝しなさい」は、まさにそこから始まります。
今日の祈り
すべての良い贈り物の与え主である神さま、私がずっと受け取り続けてきたものに、目を開いてください。今日の食事に、今日の出会いに、今日の呼吸に。お返しの計算から私を自由にしてください。そして、ただ「ありがとうございます」と言う静かな喜びを教えてください。アーメン。
考えてみましょう
- あなたにとって感謝は、「返すべき借り」に近いですか。それとも「気づくべき贈り物」に近いですか。その感覚は、どこから来たのでしょうか。
- 「すべての事を」感謝することと、「すべての事について」感謝することは、どう違うでしょうか。今のあなたにとって、その違いが大切になるのはどんな場面ですか。
- 今日与えられていて、自分で稼いだのではないものを、三つ挙げてみてください。数えているうちに、何が起こるでしょうか。
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