愛は、何をするのか
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。…そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」
この一節は、結婚式で聞いたことがあるかもしれません。柔らかな照明、静かな音楽、少し涙ぐむ参列者。だからこそ、これが本来何であったかを見落としやすいのです。実はこれは、「訂正」の言葉でした。パウロはこの言葉を、争い、競い合い、訴え合っていたコリントの教会に書き送ったのです。これは恋する人たちのための詩ではありません。愛することに失敗していた人たちへの、愛の描写です。
もう一度読んで、不思議なことに気づいてください。ここには感情がひとつも出てきません。「愛は寛容であり」— これは行動です。「情深い」— 行動です。「ねたまない、高ぶらない、誇らない」— すべて行動です。パウロの描写では、愛は「落ちる」ものではありません。「する」ものです。特に、そう感じられない日にこそ。
最初はそう聞こえないかもしれませんが、これは実は良い知らせです。感情は命令できません。苦手な同僚に温かい気持ちを抱け、と命じられても無理な話です。けれども、寛容は選べます。親切は実践できます。このように定義された愛なら、今日のあなたの感情がどんな天気であっても、今日のあなたに実行可能なのです。
昔からある試みがあります。この一節の「愛」を、自分の名前に置き換えて読んでみるのです。「太郎は寛容であり、太郎は情深い。太郎はねたまない…」。たいていの人は二文目でひるみます。では、もうひとつの置き換えを。「愛」を「イエス」に替えてみてください。突然、すべての行が真実として響きます。それがパウロの深い意図です。この一節は、まず達成すべき基準なのではありません。この基準を満たしたただひとりの方の肖像画であり、その方が今このとおりにあなたを愛しているのです。
今週は、小さく具体的に始めてみましょう。感じていなかったのに選んだ寛容をひとつ。誰にも求められていなかった親切をひとつ。愛とは、火花というより、筋肉に似ているのです。
今日の祈り
イエスさま、あなたこそ愛の姿です。私の愛が尽きるところで — 苦手なあの人の前で、疲れ果てた日に — あなたの愛を貸してください。私の愛が、感情だけでなく、日々の実践となりますように。アーメン。
考えてみましょう
- この一節の中で、あなたにとって実行が最も難しい言葉はどれですか。誰に対してですか。
- この一節を「あなたへの要求」ではなく「イエスの肖像画」として読むと、何が変わりますか。
- 今週、誰にも求められていないのにできる具体的な親切は何でしょうか。
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