谷を通るとき
「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」
詩篇23篇は聖書の中で最も愛されている詩です。そしてその地位は、たったひとつの助詞によって支えられています。「避けて」ではありません。「離れて」でもありません。「通る」のです。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも」。羊飼いの道は、暗い場所を迂回せず、その真ん中を通って — そして向こう側へ抜けていくのです。
これが大切なのは、宗教的な言葉の多くが逆のことをほのめかすからです。十分な信仰があれば迂回路がもらえる。信じる者にはバイパスが用意されている、と。しかし、自らも羊飼いであった詩人は、そうでないことを知っていました。丘陵地帯では、緑の牧場から次の牧場への道は、しばしばワジ — 足場が悪く、獣が潜む、影の深い峡谷 — を通ります。谷を通らずに、次の牧場には着けません。谷は、道程の一部なのです。
けれども、谷の中で何が変わるかに注目してください。変わるのは風景ではなく、文法です。詩篇の最初の三節は、神「について」語ります。「主はわたしを伏させ…導かれる…生き返らせ」。ところが影が差した瞬間、突然こうなります。「あなたがわたしと共におられる」。「主は」が「あなたが」に変わるのです。暗闇にはそういう力があります。神についての神学は、本当に神が必要になった瞬間、神との対話に変わります。
この詩篇が描いているものを表す、美しい日本語があります。「寄り添う」。解決しようと急がず、ただそばにいること。詩篇は、羊飼いが谷を説明してくれるとも、急いで通り抜けさせてくれるとも言いません。ただ、共にいてくださると言うのです。むちとつえ — 守りと導き — が手の届くところにあるほど、近くに。
もし今あなたが谷の中にいるなら、この詩篇はふたつの約束をしています。それは「通り抜ける」谷であること。出口が見えなくても、出口はあるということ。そして、ひとりで歩くのではないということ。ときには、このふたつ目の約束が、静かに、ひとつ目の約束まであなたを運んでくれるのです。
今日の祈り
羊飼いなる主よ、今立っている場所からは、この谷の終わりが見えません。地図を要求するのをやめて、あなたの同伴を信頼できるように助けてください。あなたがそこにいると分かるほど、近くにいてください。アーメン。
考えてみましょう
- 来るはずのない迂回路を、あなたはどこで待ち続けてきましたか。「通り抜ける」とすれば、それはどんな道になるでしょうか。
- なぜこの詩篇は、谷が始まるまさにその瞬間に、「主は」から「あなたが」に変わるのだと思いますか。
- あなたの一番つらい季節に「寄り添って」くれたのは誰でしたか。そして今、あなたの寄り添いを必要としているのは誰でしょうか。
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