「神」とはだれのことか
何かを信じるかどうかの前に、まず考えてみましょう。人が「神」と言うとき、いったい何を指しているのでしょうか。
寒い朝、初詣の長い行列に並び、賽銭を投げ入れ、二回手を打って、静かに願いごとをしたことがあるかもしれません。あるいは、夜眠れずに、満天の星の下で自分がとても小さく感じられ、「本当に誰かが、これを聞いているのだろうか」と思ったことがあるかもしれません。「そこにいるのは誰か」という問いは、特定の宗教だけのものではありません。人間なら、誰もが一度はよぎったことのある、古くからの問いです。
この「基礎」シリーズは、少し変わったところから始まります。「神は存在する」と証明しようとするのではなく、まず「神ということばで、人は何を指しているのか」を確かめることから始めるのです。同じことばを使っていても、思い浮かべているものがまったく違う、ということはよくあります。日本語の「神」ということばには、すでに一つの絵が結びついています――山の神、川の神、祖先の霊、それぞれの神社に祭られた神々。八百万の神、というあの感覚です。ところが、聖書が「神」と言うとき、指しているものはまったく別のものです。このレッスンは、その違いをただ丁寧に見ていくためのものです。
今日、何かに入信したり、決断したりする必要はまったくありません。この数分の間だけ、これまで思い描いてきた「神」とは違う絵を、少し眺めてみてください。心のどこかに、思い当たる響きがあるかどうか――それだけで十分です。
「神」は一人か、大勢か
神道の伝統では、神々は数多く存在します。山の神社、川の神社、特定の祖先を祭る社、大きな古木に宿るとされる神――それぞれの神が、特定の場所や目的と結びついています。旅の安全のため、受験の合格のため、健康な子を授かるため。これは迷信ではなく、日常の中に聖なるものを見出す、筋の通ったあり方です。
聖書が語る「神」は、数の違いというより、種類そのものが違います。聖書は、神はただひとりだけだと語ります。数多くいる神々の中でいちばん偉大な神、という意味ではなく、山も川も祖先も――そのすべてが由来する、唯一の創造主だという意味です。クリスチャンが「唯一の神」「天地を造られた神」とわざわざ書き添えるのは、「神」という一語だけでは、この違いが伝わらないからです。
聖書はこの主張を、議論を重ねて証明しようとはしません。ただ、すべての出発点として、最初の一行に静かに言い切ります。
これは実際の生き方にも関わってきます。神々が数多くいて、それぞれの持ち場が限られているのなら、目的に応じていくつもの神社を訪ねるのは理にかなっています。けれども、もしすべての背後にただひとりの創造主がおられるのなら、その方は他の神々と関心を奪い合っているのではありません――そもそも同じ土俵に立つ「他の神々」がいないからです。これは大きな主張です。今日、信じる必要はありません。ただ、そう語られていることを、はっきり見ておくだけで十分です。
「はじめに神は天と地とを創造された。」
「かたちに造られた」ということ
自分は本当に意味のある存在なのか、それとも、ただの化学反応の偶然の産物にすぎないのか――そう静かに感じたことがある人は、少なくないでしょう。特に、テストの点数や仕事の評価、家族の期待に応えられたかどうかで、自分の価値が上下するように感じられるときは、なおさらです。
聖書は、人の価値がどこから来るのかについて、ひとつの珍しい答えを示します。
「神のかたち」とは、姿かたちのことではありません。愛する力、考える力、何かを創り出す力、人と関わる力、善悪を見分ける力――造り主の性質を、限られた形でではあっても映し取っている、という意味です。つまり、あなたの価値は、何かを成し遂げた結果として後から与えられるものではなく、造られたその瞬間から、すでにそこにある、ということです。
これは、試験の結果や、営業成績や、周りの期待にどれだけ応えられたかで自分を測る生き方とは、根本的に違う土台です。この一つのレッスンで、そうした疲れがすぐに消えるわけではありません。けれども、聖書がまさにここから語り始めている、ということは知っておいてよいはずです。
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」
遠くにおられない神
今から二千年ほど前、パウロというユダヤ人の伝道者が、アテネという町を訪れました。当時のアテネは彫像と祭壇で埋め尽くされた町で、訪れた人が「人間よりも神々の像に出会う方が多い」と冗談を言うほどでした。パウロはその中に、驚くほど正直な言葉が刻まれた祭壇を見つけます。「知られない神に」――見落とした神がいないようにと、念のため置かれたものです。パウロはこれをからかいの材料にはせず、こう切り出しました。「あなたがたが、まだ名前を知らないまま感じ取っているもの――それについて、お話ししたいのです」。
パウロはこう続けます。
「われわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」ということば。多くの人が、神社の静けさの中で、真夜中の病院の廊下で、山の景色を前にして、すでに何かをぼんやりと感じ取っているのではないでしょうか。聖書は、その感覚をただの気のせいだとは言いません。むしろ、唯一の創造主は、すでにすぐそばにおられる――遠くまで旅をしたり、十分な儀式を積んだりして、ようやく届く方ではない、と語るのです。
では、もしこの神が本当に人格を持ち、近くにおられるのだとしたら――わたしたちは、どうやってその方を知ることができるのでしょうか。当てずっぽうにではなく。聖書は、まさにそのためにある書物だと、自ら主張しています――この創造主が、ことばを通して、歴史の中で、ご自分を知らせてこられた記録として。次のレッスンでは、聖書とはいったいどんな書物なのか、そして、どこから読み始めればよいのかを見ていきます。
「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。」
ことばの説明
- 神(かみ)
- 神道では、それぞれの場所や目的に結びついた、数多くの神々を指すことば。しかし聖書が「神」と言うときは、天地のすべてを造られた、ただひとりの創造主を指します。その違いを表すため「唯一の神」「天地を造られた神」と書き添えることがあります。
- 創造(そうぞう)
- 何もないところから、新しく存在を生み出すこと。すでにある材料を並べ替えたり、飾ったりすることとは違います。
- 神のかたち
- すべての人間が、神の性質――愛する力、考える力、創り出す力など――を、何らかの形で映し取っているという考え方。人の価値は、成果ではなく、造られたことそのものに根ざしている、という意味です。
この課のまとめ
- 聖書が語る「神」は、場所ごとに結びついた数多くの神々ではなく、その神々の世界そのものを造られた、ただひとりの創造主です。
- 聖書の最初の一行は、議論を重ねて証明するのではなく、静かな出発点として語られています――この世界には、造り主がいる、と。
- すべての人は「神のかたち」を映し取っていると言われます。つまり、あなたの価値は、勝ち取るものではありません。
- 聖書は、この神が「われわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」と語ります。
- 今日、何かを決める必要はありません。ただ、考えてみるだけで十分です。
考えてみましょう
- これまでに、名前は分からなくても「何かが、誰かが、そこにいる」と感じたことはありますか。それはどんな瞬間でしたか。
- 自分の価値が成果や評価によって決まるのではない、という考え方は、あなたにとってほっとするものですか、それとも、まだ信じがたいものですか。あるいは、その両方でしょうか。
- もし、この神が本当に「遠くない」のだとしたら――今週のあなたの生活に、何か変わることがあるとすれば、それは何でしょうか。
祈ってみたい方へ
神さま。本当にあなたがおられて、本当に近くにいてくださるのだとしたら――わたしはまだ、何を信じたらいいのか分かりません。でも、探し続けてみたいと思います。アーメン。
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