質問と答え

よくある質問

キリスト教について、特に日本でよく聞かれる問いに、正直にお答えします。SukuiのAIも同じ答えをもとにしているので、どの問いも、AIにさらに深く尋ねることができます。

基本の問い

「救い」とは何ですか?

救いとは、神との関係が回復されることです。聖書によれば、すべての人間は罪を犯し、神から離れています。しかし神は私たちを愛しており、イエス・キリストを通して、誰でも神と和解することができます。救いは行いで得るものではなく、神の恵みを信仰によって受け取るものです。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」

エペソ 2:8-9

イエス・キリストは誰ですか?

イエスは約2000年前にイスラエルに生きた実在の人物です。クリスチャンは、イエスが神の子であり、完全に人間であり完全に神であると信じています。イエスは十字架で死に、三日目によみがえりました。これがキリスト教信仰の中心です。

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

ヨハネ 14:6

なぜイエスは十字架で死んだのですか?

聖書によれば、すべての人間は罪を持ち、その罪は神との関係を断ち切ります。そして、罪の支払う報酬は死です。イエスだけがまったく罪のない生涯を歩まれ、ご自身に払うべき負債がなかったからこそ、その罰を私たちの代わりに引き受けることができました。イエスは、私たちの罪の代価を払うために十字架で死にました。これを「贖罪」と言います。それは、神が誰かに怒りをぶつけたのではなく、愛によることでした。神はイエスを通して、私たちに無条件の愛を示しました。

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」

ローマ 6:23

祈りとは何ですか?どうやって祈ればいいですか?

祈りは、神との会話です。完璧な言葉は必要ありません。あなたの思いや疑問を、そのまま神に話しかけることができます。初めて祈る場合は、こんなシンプルな言葉でも大丈夫です:「神様、あなたのことをもっと知りたいです。」

「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」

ローマ 8:26

疑いを持つのは悪いことですか?

いいえ。聖書にも、神に疑問をぶつけた人物がたくさん登場します。詩篇の著者、預言者エレミヤ、弟子のトマス。疑いは信仰の反対ではなく、信仰への入り口になることがあります。あなたの疑問は正直で誠実なものです。

「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」

マルコ 9:24

日本で信じるということ

キリスト教は西洋の宗教ですか?

キリスト教は中東で生まれ、アジア・アフリカ・ラテンアメリカで最も急速に成長しています。日本にもキリスト教の歴史は475年以上あります。信仰の核心は文化を超えています:神はすべての人を愛しており、すべての人に語りかけます。

「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。」

使徒行伝 17:27

神を信じながら、ほかの神々や宗教も信じ続けることはできますか?

とても自然な問いです。特に日本では、生まれるとお宮参りに連れて行かれ、結婚式はチャペルで挙げ、最後は仏式の葬儀で送られる。そこに矛盾を感じる人はほとんどいません。神々が数多くいて、それぞれに持ち場があるのなら、そこにもうひとりの神を加えることは、裏切りどころか、むしろ心の広いことのように思えるかもしれません。

正直にお答えすると、それはできません。そして大切なのは、答えそのものより、その理由です。クリスチャンが宗教どうしの競争に勝ちたいから、ではありません。聖書が神をどのような方として語っているか、という問題です。聖書の神は、棚に並べる神々のひとりとしてではなく、山も川も、わたしたちの先祖も、すべてがそこから生まれた唯一の創造主として、ご自身を示されます。十戒の第一の戒めは、はっきりとこう言います。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記 20:3)。人々がこの方と並べて拝んでいるものは、この方と肩を並べる存在ではなく、この方に造られたものなのです。

これは、関係の問題でもあります。聖書は信仰を、会員になることよりも、結婚に近いものとして描きます。ひとりの方に、信頼と愛と真心をささげることです。「妻を愛しています。でも、ほかにも妻が何人かいます」と言う人は、大きな愛を語っているわけではありません。聖書が神を「ねたむ神」と呼ぶとき、それは不安からくる嫉妬ではなく、夫や妻が相手を守ろうとする、そのような愛を指しています。イエスも日常のことばで、こう言われました。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」(マタイ 6:24)。

そしてこれは、ただの決まりではなく、良い知らせでもあります。受験にはこの神社、安産にはあの神社、商売にはまた別の神社と、願いごとにお参りする先を変える人は少なくありません。聖書が招いているのは、そのひとつひとつの願いを、唯一の神がすべて心にかけてくださる、ということです。安心するために、信頼をあちこちに分けておく必要はないのです。この方だけに向き直ることは、何かを失うことというより、肩の荷が下りることに近いのです。

最後に、これが何を意味しないかも大切です。家族の信仰や、ほかの宗教を信じる人々を見下すことではありません。イエスはすべての人を尊厳をもって扱われましたし、わたしたちもそうあるべきです。ほかの伝統にあるものがすべて無価値だ、ということでもありません。使徒パウロはアテネで語ったとき、ギリシャの詩人たちのことばを引用しました(使徒行伝 17:28)。そして、最初の日からすべてを整理できていなければならない、ということでもありません。長年の礼拝の習慣から離れていくのは、多くの場合ゆっくりとした歩みですし、神は忍耐強い方です。大切なのは、あなたの心がどこを向いているかです。あなたを造られた、唯一の神のほうを向いているかどうかです。

「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。」

イザヤ 45:22

クリスチャンは神社に行ったり、初詣などの習慣に加わったりしてもいいのですか? ただの日本の文化ではないのですか?

初詣、お守り、おみくじ、新しい車や家のお祓い。日本で暮らす多くの人にとって、これらは宗教というより文化に感じられるものです。「ただの習慣だから」という答えがよく返ってきますし、それは本心からのことばです。

聖書が線を引くのは、文化ではなく、礼拝です。日本の文化には、クリスチャンが自由に楽しめる良いものがたくさんあります。お正月のおせち、夏祭りの屋台、あいさつのおじぎ、お盆に家族が集まること、お寺の庭の静かな美しさ。歴史や建築を味わうために、観光で神社やお寺を訪ねることも問題ありませんし、実際に多くの日本のクリスチャンがそうしています。

クリスチャンがしないのは、そこで礼拝することです。神々に祈ること、拝殿の前で拝礼して柏手を打つこと、神へのささげものとしてお賽銭を投げること、守ってもらうためにお守りやお札を買うこと、運勢を知るためにおみくじを引くこと、お祓いを受けること。どれほど習慣のように感じられても、これらはどれも、だれかに向けられた行いです。神々に守りや祝福や導きを願うものだからです。イエスは聖書を引用して、こう言われました。「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(マタイ 4:10)。聖書には、このバランスを示す昔の例があります。バビロンにいた三人の若者は、王に仕える役人として忠実に働きましたが、王の金の像だけは拝みませんでした(ダニエル書 3章)。彼らは無礼でも反抗的でもありませんでした。ただ、神以外のだれにも礼拝をささげなかったのです。

どんな一覧表よりも大切なのは、あなたの心です。いつも自分の心を、そして自分がそれをする理由を見つめてください。外から見て同じ行いでも、その意味はまったく違うことがあります。神社の境内で静かに古い杉の木を眺めることと、今年も神様に守ってもらえるようにと願ってそこに立つことは、別のことです。故人への愛と敬意から葬儀で頭を下げることと、亡くなった人を神として拝むことも、別のことです。人は行いを見ますが、神はその理由をご覧になります。ですから「これは許されているか」と問うだけでなく、自分に問いかけてみてください。「わたしはここで、何に頼っているのだろう。これに、何をしてもらおうと期待しているのだろう」。正直な答えが神々やお守りや運であるなら、それは本来、神にささげるべき信頼です。美しさや歴史、友情、家族への愛であるなら、あなたは自由です。

すべての場面を決まりで割り切ることはできませんし、誠実なクリスチャンの間でも結論が分かれることがあります。たとえば、お祭りでおみこしを担ぐことや、葬儀での作法などです。聖書がはっきり語っていないところでは、神の前で自分の良心に従い、違う結論に至った人を裁かず(ローマ人への手紙 14章)、信頼できるクリスチャンと話し合ってください。そして、もし長年これらのことをしてきたとしても、恥じることはありません。周りのみんながしていることを、あなたもしていただけです。神はあなたの過去を数え上げてはおられません。あなたの心を招いておられるのです。

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」

サムエル記上 16:7

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