救いSukui
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孤独 · Loneliness

そばを離れない方

The One Who Stays
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」
マタイ 28:20 (口語訳)

朝のラッシュの車内ほど、人と人が近い場所はめったにありません。見知らぬ人の呼吸が聞こえるほどの距離に立ちながら、その車両の誰ひとり、あなたの名前を知らない。SNSに何百人のフォロワーがいても、深夜2時に電話できる相手はいない。孤独とは、結局のところ、そばにいる人の数の問題ではなかったのです。それは「知られていない」という痛みです。満員の街を、名前のないからだとして通り過ぎていく痛み。日本で孤独が国の課題として語られるようになったこと自体が、ひとつの静かな告白です。人ごみは、孤独を治さないのです。

マタイによる福音書の最後の一文は、別れの場面で語られました。イエスは友人たちのもとを去ろうとしていて、場面のすべてが「さようなら」を告げています、言葉だけを除いて。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。これは、別れの言葉の正反対です。しかもマタイは、最初の章からこの一文に向けて布石を打っていました。福音書の冒頭で、イエスは「インマヌエル」、「神われらと共にいます」、と名づけられています。つまりこの福音書は全体が、「共にいる」で始まり、「共にいる」で閉じられているのです。この物語が何の物語かといえば、それなのだ、と言わんばかりに。

この約束を受け取ったのが誰だったかを、見てください。数週間前、イエスが捕らえられたとき、彼を見捨てて逃げた十一人の男たちです。しかもマタイは、驚くほど正直に書き加えています。この山の上でさえ、「疑う者もいた」と。イエスは、彼らが立派になるのを待ちませんでした。もっと忠実になり、もっと確信を持ち、もっと人付き合いが上手になるのを、待たなかったのです。約束は、見捨てた者たちと疑う者たちの上に、疑いのただ中で降りてきました。ここから、この約束の条件がわかります。「共にいる」は、人生を立て直せた人へのごほうびでは、最初からなかったのです。

これが大切なのは、人間の居場所には、たいてい静かな入場条件がついているからです。明るくいること。役に立つこと。重たくなりすぎないこと。だから私たちは、歓迎され続けるために自分を編集します。けれども、編集は疲れます。そしてそれ自体が、ひとつの孤独です。編集される前の自分は、外に出かけている夜でさえ、家でひとり留守番をしているのですから。イエスの約束する同伴に、そのような条件はありません。それは同じ電車に乗って帰ります。ワンルームの部屋に、一緒にいます。今日うまく振る舞えなかったほうのあなたと、共にいるのです、むしろ、そちらのあなたとこそ。

では、このような約束をどう扱えばよいのでしょうか。同伴は、人付き合いと違って、予定を合わせる必要がありません。今夜、静かな部屋で、誰かがそこにいるかのように話しかけてみてください。整った祈りでなくていいのです。ただの一文で。「今日はつらかったです」。「さびしいです」。この約束は、スイッチを入れたように即座に存在を感じられる、と保証しているわけではありません。それが告げているのは、寄りかかるための事実です。その方はそこにいて、去っていかない、という事実。去らない方に知られていること、そこから孤独は、少しずつ、力を失い始めるのかもしれません。

今日の祈り

イエスさま、あなたは「いつも共にいる」と約束してくださいました。立派なほうの私にではなく、この私にです。満員電車の中でも、静まり返った部屋の中でも、あなたの同伴に、事実として寄りかかることを教えてください。そして、あなたに知られていることが、人ごみには決して癒せなかったものを、癒し始めますように。アーメン。

考えてみましょう

  1. あなたが一番孤独を感じるのは、どんなときですか。そこで足りないのは「人」でしょうか、それとも「知られること」でしょうか。
  2. 職場で、友人の間で、SNSで、歓迎され続けるために満たさなければと感じている「入場条件」は何ですか。同伴に条件がないとしたら、何が変わるでしょうか。
  3. 今夜、「共にいる」と言われた方に、飾らない一文を声に出して言ってみてください。あなたなら、何と言いますか。

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