砕かれた心の、すぐそばに
「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。」
つらいことが起きたとき、周囲の人は説明を差し出そうとします。「すべてのことには意味があるんだよ」「この経験があなたを強くするよ」「いつかきっと、理由がわかる日が来るから」。たいていは善意の言葉です。そして、たいていは事態を悪くします。本当の悲しみの中に座ったことのある人なら、あの感覚を知っているはずです。自分の痛みの外側から差し出される「痛みの説明」は、扉が閉まる音のように響くのです。受け入れられる理由など存在しない喪失が、この世にはあります。そうでないふりをすることは、苦しむ人を敬うことではありません。丁寧な形をした、見捨てることです。
詩篇34篇18節の最も驚くべき点は、ここかもしれません。この聖句には、説明がひとつもないのです。もう一度読んで、「書かれていないもの」に気づいてください。「なぜなら」がありません。苦しみが教えてくれるはずの教訓もありません。「いつかすべてに納得がいく」という約束も、「心が砕けるのは実はあなたのためになる」という示唆もありません。この聖句が差し出す情報はただひとつ。それは理由ではなく、場所です。「主は心の砕けた者に近く」。近い。上手に乗り越えている人の近く、ではありません。砕かれた人の近くです。そのままの姿の、その渦中にいる人の。
そして聖書は、砕かれた人に「そう言っていい」という許可を与えています。それも、大声で。詩篇のおよそ3分の1は嘆きの詩です。抗議の祈り。混乱の祈り。時には、神への詰問さえあります。「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか」「なぜ、み顔を隠されるのですか」。これらは、編集をすり抜けてしまった信仰の失敗作ではありません。聖書そのものです。あらかじめ用意された言葉、まるで神ご自身がこう言っておられるかのようです。「これほど痛いときは、わたしに向かってこう叫んでいい」と。聖書の文法において、嘆きは信仰の反対語ではありません。嘆きとは、部屋を出ていくことを拒む信仰なのです。
キリスト教が苦しみについて語ることが、もうひとつだけあります。それも答えではありません。出来事です。この詩篇の神は、説明のできる安全な距離にとどまりませんでした。イエスにおいて、神は友の墓の前に立ち、涙を流されました。これから何をしようとしているか、ご自身で知っていたにもかかわらず、です。そして十字架の上で、神は自ら嘆きの祈りを祈られました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。その「どうして」に、天からの答えはありませんでした。この出来事が何を意味するにせよ、少なくともこれだけは確かです。どん底から叫ぶとき、あなたは「そこにいたことのない誰か」に向かって叫んでいるのではありません。「砕かれた者の近くにいる」とは、神が唱えている理論ではないのです。神が実際に立たれたことのある、場所の名前です。
ですから、もし今あなたの心が砕かれているなら、喪失によって、診断によって、返してもらえないものを奪っていった災害によって、この詩篇はあなたに何も要求しません。前向きな見方も、感謝も、回復の予定表も。意味を見つけなくていいのです。見つかるはずの意味がある、と信じることさえ、求められていません。この聖句はただ、今夜、神がどこにおられるかを告げています。それは、遠くから見守る場所ではありません。ここです。心が砕けた、まさにその座標です。黙って座っていていいのです。泣いていいのです。自分の言葉が何もないなら、詩篇の詩人の言葉を叫んでもいいのです。主は近くにおられる、約束はそれだけです。そして最悪の夜には、それだけが、本当に助けになる約束なのです。
今日の祈り
近くにおられる神さま、今夜は、平気なふりをしません。痛いのです。わけがわからないのです。説明してほしいとは言いません。ただ、いてください。みことばが語るとおりの近さで、そばにいてください。涙しか祈れないなら、涙を祈りとして受け取ってください。アーメン。
考えてみましょう
- あなたの痛みに「説明」を差し出されて、かえってつらくなった経験はありますか。あの瞬間、本当に必要だったものは何でしたか。
- もし抗議や混乱が「許された祈りの形」だと知っていたら、あなたは神に何と言うでしょうか。
- イエスご自身が「どうして」と祈り、天から答えがなかったこと、この事実は、あなたにとって何かを変えるでしょうか。
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