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待つこと · Waiting

待つことは、何もしないことではない

Waiting Is Not Nothing
「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」
イザヤ 40:31 (口語訳)

待つことの中には、時刻表つきのものがあります。電車が4分遅れている。電光掲示板がそう言っている。ため息をついて、スマホを見る。この種の待ち時間はいらだたしいものですが、心を傷つけはしません。人をすり減らすのは、確認できる掲示板のない待ち時間です。50社目のエントリーにも返事が来ない。病気の終わりが見えない。口に出すほうが沈黙よりも痛いから、もうほとんど言わなくなった、あの願い。そういう季節には、カレンダーだけが進んで、自分の人生は動きません。その二つのあいだの隙間にこそ、疲れは棲みつくのです。

イザヤ書40章は、まさにその隙間に向けて書かれました。最初の読者は捕囚の民、あまりに長く神の行動を待ち続けたため、ひとつの無理もない結論に達していた人々です。「神は私たちを忘れたのだ」と。今日の箇所の少し前で、イザヤは彼らの嘆きをそのまま引用しています。「わが道は主に隠れている」。イザヤはそう言った彼らを叱りません。答えるのです。疲れ果てた人に宛てた約束をもって。「主を待ち望む者は新たなる力を得」ると。

何を待つのか、注意深く見てください。イザヤは「結果を待ち望む者」とも「状況の好転を待ち望む者」とも言っていません。「主を」待ち望む者、結果ではなく、人格です。これは待つことの性質そのものを変えます。結果を待つとき、人はカレンダーのなすがままです。更新されない掲示板を、ただ見続けるしかありません。けれども人を待つことは、関係です。待ちながら話しかけることができる。不平を言うこともできる。その方に望みをかけることができる。詩篇の詩人たちはそれを、夜回りが朝を待つ姿にたとえました。彼らには日の出を一分も早める力はありません。それでも、身を乗り出すようにして待ちます。夜明けとは「必ず来るもの」だと知っているからです。それが、「待つこと」と「あきらめ」の違いです。

それから、動詞の不思議な順番に気づいてください。飛ぶ、走る、歩く。逆ではないでしょうか。約束なら、わしの翼で締めくくるべきでは? けれどもイザヤは「歩く」で終わります。長い季節の中にいる人なら、その理由がわかるはずです。飛べる日は、めったにない特別な日です。走れるのは、人生に勢いがある季節です。現実の人生の大部分は、そして待つ季節のすべては、歩くことでできています。もう一通、応募書類を送ること。もう一度、診察に行くこと。もうひとつの、なんでもない火曜日を過ごすこと。この聖句は、最後の約束をまさにそこのために取ってあります。状況の上を舞い上がる力ではなく、状況の中を、崩れずに歩き続ける力です。

もし今、あなたの人生で何も動いていないように見えるなら、この約束にはあなたの名前が書かれています。上手に待てたからではありません。「新たなる力」は、そもそもあなたが作り出すものではないからです。聖句が描いているのは、交換です。すり切れたあなたの力が、主の力と取り替えられる。今夜、希望を無理にこしらえる必要はありません。この季節を実際より短いふりをする必要もありません。招かれているのは、ただ、待つ方向を変えてみることです。沈黙したままの受信箱からではなく、あなたを忘れてなどいない神のほうへ。

今日の祈り

待つ者の神さま、この季節がどれほど長かったか、あなたはご存じです。私よりも正確に、日数を数えてこられました。朝を早めることは私にはできません。だから、結果だけではなく、あなたご自身を待ち望むことを教えてください。私にはない力を、新たに与えてください。飛ぶための力ではなくていいのです。ただ、明日を歩くための力を。アーメン。

考えてみましょう

  1. あなたが今、時刻表なしに待っているものは何ですか。その待ち時間は、あなたをどう変えてきましたか。
  2. あなた自身の経験の中で、「結果を待つこと」と「人を待つこと」はどう違いましたか。
  3. なぜこの聖句は「飛ぶ」ではなく「歩く」で終わるのだと思いますか。今週のあなたに必要なのは、三つのうちどの力でしょうか。

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