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喜び · Joy

根のある喜び

Joy With Roots
「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」
ヨハネ 15:11 (口語訳)

気分は、天気です。睡眠で変わり、ニュースで変わり、上司からの素っ気ないメール一通で変わり、雨が降るか降らないかで変わります。ふつうの月曜日に触れて、無傷でいられる気分など存在しません。それなのに現代の暮らしは、私たちに「晴れの演技」を静かに要求してきます。明るい返信。職場での明るい顔。他人の輝く日々で埋め尽くされたSNS。その結果を言い当てる、正直な日本語があります。空元気、内側に何も残っていないからこそ、外側に掲げられる元気。ほとんどの人が、身に覚えがあるはずです。そして、あれがどれほど重いかも。

では、イエスが今日の一文をいつ語ったかを考えてみてください。ヨハネ15章は、うららかな午後の講話ではありません。十字架の前夜です。ユダはすでに裏切りのために席を立ち、逮捕は数時間後に迫り、イエスはそれを知っています。よりによってその闇の中で、イエスは言うのです。「わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」。だとすれば、イエスの言う「喜び」が気分であるはずはありません。あの夜、晴れの気分でいられる理由を、イエスほど持たない人はいなかったのですから。イエスが語っているのは、口を開く前に状況を確認したりしない何かです。

手がかりは、「わたしの喜び」という言葉にあります。イエスは「元気を出しなさい」とは言っていません。実は、感情への命令をひとつもしていないのです。語られているのは、受け渡しです。わたしの喜びが、あなたがたのうちに宿る。問題の喜びは、すでに存在し、すでに別の方の内で燃えています。招かれているのは、それを自力で発生させることではなく、燃え移るほど近くで生きることです。これは空元気とは、まったく別の営みです。空元気は、空のタンクから汲み上げる元気です。こちらはむしろ、自分で起こしたのではない火、燃やし続ける責任もない火の、そばに座ることに似ています。

そしてそれこそ、前後の聖句が描いている光景です。ヨハネ15章の全体は、ぶどうの木と枝の話です。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。枝は、実を結ぼうと力んだりしません。歯を食いしばってぶどうを絞り出した枝など、一本もないのです。枝がすることはひとつだけ。つながり続けること。すると命が流れ、季節が来れば実がなります。イエスは喜びを、まさにこの種の実として挙げました。ここから見えてくることがあります。根のある喜びは、悲しみの不在を必要としません。悲しみと同じ野原に立つことができるのです。木が雨の中に立つように。なぜなら、その源は天気ではないからです。初めから、そうだったのです。

ですから今週の課題は、「もっと前向きになること」ではありません。誰もあなたに笑顔を求めていません。招きはもっと静かで、ずっと現実的です。つながっていること。ぶどうの木のそばで過ごす数分、正直な祈り、福音書の1ページ、実際に起きていることを神に打ち明けながらの散歩。喜びは、イエスが与えるもので、あなたは受け取る側だとイエスは言います。「満ちあふれる」は約束であって、査定ではありません。根は、ゆっくりと、地面の下で育ちます。けれども嵐のあとに立っているのは、根のあるものです。晴れの日々が通り過ぎて、ずっとあとまで。

今日の祈り

イエスさま、晴れの演技をすることに疲れました。より良い気分がほしいのではありません。あなたの喜びをください。あの最も過酷な夜にも、あなたの内で生きていた喜びを。ぶどうの木につながり続けることを教えてください。実は、季節が来たら結ばれるのですから。アーメン。

考えてみましょう

  1. あなたが今、感じてもいない明るさを演じているのは、どんな場面ですか。その演技は、あなたから何を奪っているでしょうか。
  2. イエスが「喜び」について語ったのが、順調な日ではなく逮捕の夜だったこと、それはこの言葉の意味を、どう変えるでしょうか。
  3. もし喜びが気分ではなく「実」なのだとしたら、あなたの一週間の中で「ぶどうの木につながり続ける」とは、現実的にどんな形になるでしょうか。

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